Shin-Kurozome

Kurozome/Toru Arakawa(Kyoto Montsuki)

「深黒染」が切り開く、
伝統産業の新たなビジネススキーム

創業以来、黒専門の染物店として100年以上にわたり支持され続けてきた「京都紋付」。
今回、京都の黒染文化と黒紋付の現状、さらには独自の技術「深黒染め」について同社代表取締役社長・荒川徹氏をインタビュー。一度は消失の危機を迎えた「黒染」はどのようにして息を吹き返し、新たなビジネスとして成功することができたのか。

伝統産業を基軸とした再生の成功例として、荒川氏にこれまでの歩みと展望を伺った。

text by Noritatsu Nakazawa

黒紋付の文化と、京都の黒染職人

「黒橡(くろつるばみ)」「涅色(くりいろ)」「黒檀(こくたん)」「紫黒(しこく)」「漆黒」「墨色」「濡羽色(ぬればいろ)」「檳榔子黒(びんじろうぐろ)」「呂色」。これらは黒系統の色を表す日本語であり、他にも、ものの黒さや暗い様子を表す言葉は「暗黒」「暗晦」「闇」「陰」「晦(つごもり)」「射干玉(ぬばたま)」「濡烏(ぬれがらす)」「冥闇(めいあん)」など、その種類は枚挙にいとまがない。この言葉の数が表すように、我々日本人は長い歴史のなかで「黒」と向き合いながら、その過程でさまざまな解釈も生み出してきた。

「先人たちは豊かな創造力と直感をもって『黒』と対峙し、そこからさまざまな意味や解釈を見出してきました。そして、見出したものを生活のなかへ上手に取り入れながら、自分たちの世界を構築し、理解する手がかりにしてきた。日本の陰日向の文化もそうですね、障子があってそこに光が差し込み美しい陰ができて、それを愛でる。日本語に黒や陰を表す多種多様な表現があるように、それだけ黒(陰)が身近な存在であり、文化として人びとのなかにも無意識に根付いてきたんでしょう」

 そう語るのは、「株式会社京都紋付」の代表取締役社長・荒川徹氏。1915年に創業した京都の老舗染物屋であり、100年以上にわたり日本の被服文化を陰で支えてきた企業。なかでも「紋付(もんつき)」を染める「京黒紋付染(きょうくろもんつきぞめ)」において京都屈指の存在としても知られる。

京都の花街(かがい)において、舞妓さんや襟替え(えりがえ/舞妓から芸妓になること)をした芸妓さんの本衣装としても用いられている京黒紋付染。

伝統芸能の世界では現役の存在ではあるものの、生活様式の変化に伴い目にする機会も減りつつあるという実情も。

「昔は紋付も嫁入り道具のひとつで、嫁ぎ先へ必ず持っていくものでした。しかし、そうした文化も今ではありません。紅白に彩ったトラックでお嫁さんの家具などを新居へ運ぶ『荷出し(にだし)』も、現在ではほとんど目にする機会もなくなりましたからね。定期的な需要のある文化といえば、歌舞伎や能、大相撲、舞妓さんに芸妓さんの衣装、あとは宝塚の卒業式といった伝統芸能ごとくらいでしょうか」

京都市中京区にある京都紋付。「御黒染司(おんくろぞめつかさ)」と染め抜かれた暖簾も、同社の技術である深黒染めで染め上げられたもの。
初代・荒川金之助氏荒川染工場から引継ぎ、京都紋付の創立者である2代目荒川忠夫氏考案によるもの

二代目・荒川忠夫により創立された株式会社京都紋付は、1978年には濃色染めの「純黒」、1981年には「深泥黒」と、黒染めにおける画期的な手法を立て続けに考案。インタビューに応えてくれた代表取締役社長・荒川徹氏は、京都紋付の四代目にあたる。今まで紋付に活用されていた美しく黒い「深黒染」を洋装業界に初めて活用し、高い評価を得た。

右側が黒染めのみを行った生地で、左側が「深黒加工」を施した生地。その差は一目瞭然で、深黒染めの方が色に深みがあり、重厚な黒味を帯びていることがわかる。この黒さを染めで作り上げることができるのは、京都紋付ただ一社。

 「黒は日本の被服文化において、特にさまざまな意味合いを孕む色。例えば、僧侶が身に着ける僧衣(そうい)の『厳粛さ』や、裁判官が身に着ける法服(ほうふく)の持つ『厳格さ』、さらには歌舞伎の黒衣(くろご)が黒い衣装で身を包むことでそこに“いない”ことを想起させるといったように、同じ黒い服でもさまざまな解釈がなされてきたんです。
何ものにも染まらない不変を意味し、高貴な色でもある黒紋付ですが、見方を変えれば黒一色の柄のない着物。我々染め職人がどこで付加価値をつけるかといったら、並んだときに“より美しく見える黒”を追求することなんですね。そこから生まれ、先代から受け継がれた技術を応用することで辿り着いたのが弊社の『深黒染』です」

紋入れの際に生じた、黒すぎる故の問題

染めるのが困難とされるシルクの紋付を長年染め上げてきた技術を応用した「深黒染」は、綿や麻、ウールといった天然繊維に対しても有効。これまでの洋装には無い深い色合いの黒染めを実現する、京都紋付が持つ唯一無二の技術だ。「紋付の黒の頂点は先代で行き着いた」ともいう荒川氏いわく、現代の技術を持ってすればより黒く染め上げることも可能。しかし実用性の面においては黒いがゆえにデメリットを生じてしまうという。

「技術的にはさらに黒くすることもできるのですが、ただ黒くすれば良いというものでもなくて。例えば紋付を着て立ち上がる際、ヒザに手をついただけですれた手の角質が生地に移ってしまい、白い汚れとなり美しくない。黒ければ黒いほどホコリも目立つので、深黒染で生み出す黒はそうならないギリギリの色味を研究しています。
また、家紋を描く際は紋の形状にあわせて白く染め抜いてから紋を描くのですが、深黒があまりにも黒いため、紋を描く際に使う黒い染料と色の差が出てしまい、同じ黒なのに色が合わないという自体に直面したこともありました。京都の紋入れ屋さんからそうした相談を受けて、同じ色になるよう薬品や技術共有をしたほど。問い合わせてくれる紋入れ屋さんはまだいいのですが、なかには地方の紋入れ屋さんから『普通の黒紋付とは違う色なんか納めて』と苦言を程されたこともあるほどです(笑)」

伝統的な京黒紋付染を手掛ける黒染め専門企業として歩んできた京都紋付。その屋台骨である染めの技術研究は初代・荒川金之助氏の時代から既に取り組まれており、深みのある色を出すために何度も下染めを繰り返し、色を重ねる試行錯誤がなされてきた。現在の染め工程においてはある程度の機械化が進んでいるものの、染めに司る職人の熟練した技と長年の経験による勘はもちろん不可欠。染料の温度を微妙に変化させながら数十回にもわたり生地を上下させて染めを繰り返し、究極の黒を導き出してきたのだと荒川氏は話す。

使用する染料は、京都にある染料店と試行錯誤をしながら特別にブレンドしてもらったもの。壬生の井戸水とも相性が良く、白い絹の生地を漬け込むだけで力強い黒色へと染め上がる。

黒をより黒くする、「深黒染め」の技法

二代目・荒川忠夫氏。染め職人として黒一色にこだわり、先代から受け継いだ技術に磨きをかけながら世界一の黒を求め、一層深みのある黒を追求してきた人物だ。その探究心から、「体を切ったら、黒い血が出てくるかもしれん。」という言葉も遺している。

「現在工場で稼働している機械は、反物を染めるための反応染自動染色機、深黒加工機と、洋服用に使用しているドラム式染色機の3台。洋服の場合はほぼ自動で染色を行いますが、反物の場合はムラにならないように上下させながら2時間半ほどかけて染めを行い、専用の乾燥機で乾かすことで前半の作業は終了。その後、染め上げた生地に『深黒加工』を施すことで、より深い黒色へと仕上がります」

光に焦点を当て生まれた革新的な加工技術

深黒を実現するのに欠かせないのが、この「深黒加工」と呼ばれる工程。特殊な薬剤「深黒加工剤」を使って加工を施すことで布そのものが光を吸収し、より深みのある黒を出すことができるのだという。

深黒加工のメカニズム。加工を施した生地の表面は光を吸収するようになり、肉眼で目にしたときの黒の深さが増す。このように、光を吸収する黒を突き詰めると、最終的には生地の凹凸すら認識が難しくなるという。同じロジックで作られたのが、カーボンナノチューブから生まれた「ベンタブラック」だ。

「反応染と深黒染めは、紋付の下に着る白い襦袢(じゅばん)を色落ちで汚さず、白黒のコントラストをより美しく見せるために生まれました。染料で出せる黒には限界があるため、黒染めした生地の上に光を吸収する加工を施すことで、黒よりも黒い表現が可能となっています。その独特な深みのある漆黒の色味に加え、撥水性とソフトな肌触り、優しい染料の使用という多くのメリットがあります」

生地に深黒加工を施すことで、撥水効果とソフトな仕上がりという副産物も得られるという。荒川氏は洋装部門としてこの技術を応用し、洋服の染めを積極的に行なっている。

京都紋付の工場の様子。右側にあるのが反物を染めるための自動染色機で、左側が洋服などを染めるドラム式染色機。反物の場合はここで染色を行った後、そのまま大型の自動乾燥機へと送られ乾燥させ、その後深黒加工が行われる。

独自にブレンドした染料を職人が約60度のお湯で溶かし、ドラム式染色機へと流し込む。染める洋服とともに促進剤の芒硝(硫酸ナトリウム)を投入して染色開始。染色に最適な温度や薬剤投入のタイミング、量なども、すべて長年の経験から導き出されたものだ。

染色から数分を経た洋服の様子。既に黒ぐろとした濃い色に染まっているのが分かるが、工程はまだまだこれから。染色後に竿干しを行い、完全に乾燥したのちに深黒加工を行い、その後再び竿干しが行われる。

反物の場合、一旦のサイズは幅38cm(紳士向けは42cm)×16m。ムラなく染め上げて均一な仕上がりにするためには非常に高度な技が求められるが、京都紋付では染め、乾燥、加工技術と設備は既に先代までで完成されたという。

「もともとは父が考案した技術をもとに、私が洋装向けの実用的な技術として改良したもの。父がこの加工を思いついたきっかけは、たまたま着ていた黒い服に生卵を落としたことで、布が白身にコーティングされ、より黒く見えたことから。生地の表面に加工を加えることで、新しい黒色の表現ができると閃いたんですね。まさに偶然の産物なんです」と、荒川氏。
発案から約2年研究を経て完成された「深黒加工」は以降も改良を重ねながら、その深く唯一無二の黒さは京都を中心に全国の黒染市場へと浸透。1990年頃には黒染め反物市場における売り上げの半分以上を京都紋付が占めるまでに成長した。

まさに順風満帆であった同社だが、人びとの生活様式の変化とともに不穏な影が覆いはじめる。

紋付文化の陰りと、そこから見出した活路について。一問一答

生活様式の変化に伴う紋付の衰退については前述の通りだが、そのことは国内のマーケットにも如実に現れていると話す荒川氏。1975年の時点で約2兆円であった着物のマーケットは現在3,000億円弱にまで低下し、紋付のマーケットも最盛期の反物換算で年間約300万反(たん)を染め上げていたが、現在は年間約3,000反ほど。御多分に洩れず京都紋付もその煽りを受け、機械を一週間フル稼働させれば事足りる程度にまで紋付の市場は縮小してしまったと話す。

 

「まさに伝統産業の崩壊です。そうした事情から、昭和20年代から伝統染色の黒染めをPRして黒紋服や黒留袖の普及に尽力してきた『京都黒染工業協同組合』も、2022年3月でついに解散しました。ピーク時には京都で100事業所以上が参画していたんですが、最終的には3社にまで減少してしまったんですね。紋付に従事する職人も、残るはわずか4、5名。現場を離れて別の業種へと鞍替えした職人も多いと聞いています」

 

紋付文化が瓦解してゆくのを目の当たりにし、その実情を真摯に受け止めた荒川氏。マーケットの縮小に加え、使用する染料の見直しを迫られるといったさまざまな問題を抱えながら、2000年頃を境に京都紋付の舵を大きく切る決心をする。「これまでの歩みは危機の連続。まさに危機しかありませんでしたよ(笑)」、そう笑ってみせる荒川氏に、これまでに直面してきた危機と、そこから見出した活路について一問一答形式でうかがった。

Q.

京都紋付がこれまでに直面した
最大の危機は何ですか? 

また、そこからどう脱却をしましたか?

「最大の危機は、大きく2つあります。ひとつは紋付マーケットの縮小。魚のいない場所に釣り針を垂らしていても魚は釣れませんよね。だから早めに新たなフィールドに向けて舵を切る判断をしなければ会社は残らないと考え、2000年を境に紋付から洋服の染めへとシフトしました。京都紋付も45人いた社員が6人まで減り、年間12億円の売り上げも今では1億円程度。規模こそ縮小したものの利益は出ていますし、会社としてのビジネスも発展しています。  もうひとつは、染料の見直し。長年使用してきた染料は『アゾ染料』と呼ばれる化学染料で、数年ほど前からヨーロッパ諸国を中心に使用禁止になりました。安くて使い勝手のいいアゾ染料を規制することは、恐らく高価な染料を売りたいという諸外国の思惑もあるかと思いますが、染めた製品を海外に輸出できないことは痛手です。しかし、アゾ染料の中止については数十年前からあった話なので、弊社では1996年からアゾ染料の使用を自主的に取りやめていたんですね。新たな染料は当初アゾ染料と比較して色が悪くなるといったデメリットなどもありましたが、そうした問題もすでに技術的に解決しています。日本では現在も着物業界のみアゾ染料の使用が認められていますが、我々はそこに甘んじずにマイナーチェンジを行ったため、タイムラグなくアパレルや百貨店とのビジネスという新たな業界へ歩みいることができた。それしかできないと諦めずに、変わる道を選んだことが功を奏し、結果として危機を回避したわけです。昔ながらの製法に頑なにこだわっていたら、そうした新たなチャンスをフイにすることになっていたでしょう。守るべきは何か、拘るところは拘り、捨てる所は捨てる、ホンマに危ないところでした(笑)」

A.

Q.

ファッション業界とのコネクションはどのように築き上げてきたのでしょうか?

代表的な実績とあわせて教えてください

「アパレルの知識なんてひとつもなかったですよ(笑)。今でこそ周りのクリエイターさんや知り合いを巻き込みながら楽しく仕事させてもらっていますが、最初は展示会に出展しひたすら名刺を集めました。ファッションに関連する展示会や見本市に積極的に参加をして、営業を繰り返してきました。そうした地道な活動からいろいろなご縁に恵まれまして、メディアの取材も増え、徐々に国内外のブランドや企業の方からもお声を掛けていただけるようになりました。これまでに『アンリアレイジ』『イッセイ ミヤケ』『ヴィヴィアン・ウェストウッド』『クロムハーツ』といったハイブランドを筆頭に、深黒染めを使ってさまざまなファッションブランドとのコラボレーションを行ってきました。また、古着店『セカンドストリート』や『フェリシモ』を通じた染め替えサービスの展開や、『WWF JAPAN(世界自然保護基金)』との施策、『高島屋』『三越伊勢丹』といった商業施設での取り組みも数多く展開しています」

A.

Q.

消失寸前となった黒染め文化を残すことができた決め手は、何だと思いますか?

京都紋付が残ることができたのは、『残したい』という強い想いがあったから。残りたくても現実は残酷で、残したくても残せずに廃業した企業も多かったんですね。父から受け継いだ会社であり、息子に託して続けてもらいたいという個人的な想いもある。臥薪嘗胆といいますが、厳しいときこそ、そうした想いが積み重ねられていった。そして、私たちの使命は、“核となる技術を頑なに守りながら世の中に必要とされるかたちに変化させ続ける”こと。それをしないと、伝統産業は生き延びることはできない。これは、絶対と言い切れます。せっかくの良いものや良い技術も、ただ大切に守り続けるだけではダメで、進化をしなければ。ダーウィンの進化論と同じで強いものが残るのではなく、変化に対応できなければ進化の過程で淘汰されてしまうようなことにもなりかねないわけですからね。そのために京都紋付は『温故知新』という言葉を大切にしています。上のステージへと上がるために、原点回帰は不可欠。何ごともブレずに、古くから培ってきたことを糧にしながら上へと上がりながら原点回帰する螺旋階段のように。それができなければ進化はできないし、伝統産業の未来はありません」

A.

Q.

京都紋付のこれからのヴィジョンについて教えてください。

今のようにSDGsなどが声高に叫ばれる以前から京都紋付は洋服の黒染めサービスに取り組んでおり、現在は『セカンドストリート』やフェリシモの『クロニクル』、三越伊勢丹の『リ・スタイル』など、窓口となるパートナー企業も増えてきました。当初はHP経由で染め替えの依頼を募っていたのですが、発送から納品までに手間がかかりすぎたため、ワンウェイで完結するような仕組みを独自に考案しました。2021年にはおかげさまで売り上げも前年対比三倍にまで成長しています。このスキームは物販のみならず、クリーニング店や美容室、さらには企業内で取り組むCSRにも応用が効くと考えています。いずれはこのシステム単体が売り物として独り立ちさせ、導入まですべてオンラインで完結するようなサービスにしたいと考えています。そしてもうひとつが、“染め替えることを前提とした製品”の本格展開です。弊社の黒染めは圧倒的な黒さで汚れや焼け、汗染みまでをカバーして新品同様にすることができるため、一着の服で2回デザインをたのしめる製品を提案しています。商品タグの表に染め替え可能であることを表記し、裏に2つのQRコードを取り入れるます。一つを読み込むと染上げ後の画像が見られ、もう一つを読み込むと製品を製作している会社の染め替え受注のHPに遷移します。そこから染め替えを発注されると、販売会社に染め代金のコミッションが支払われます。一点で消費者は2度デザインを楽しめ、販売業者は2度利益を得られ、廃棄衣類の削減につながる三方良しのスキームです。 

A.

待っていても流れは来ない。老舗染物店と深黒染めの今後

温故知新を胸に、型破りともいえるビジネスを展開する京都紋付の荒川氏。深黒染を起点にシステムの開発を筆頭に、染め替えのギフトカードやギフトコードのサービスも展開予定しているという。さらに、2022年9月には「REWEAR」という衣類の廃棄削減を目的とした一般社団法人も創設した。

 

「我々の持つ技術を使って、洋服の再生事業を本格的に展開するつもりです。そのために指標となる組織を立ち上げる必要があるのですが、現状衣類の再生にまつわる団体や社団法人が乱立して、おりぐちゃぐちゃになっている状況。なので、しっかりとした協議会を立ち上げて概念から整える必要があるんですね。そこで、過去に京都黒染工業協同組合が制定した『黒の日(2022年9月6日)』に発足しました」

 

横軸となるのは黒染めのみならず、修理のために縫製をし直す組織や染めなどを行う同業他社、縦軸は大学の先生やアパレルブランド、一般の消費者など。「衣類を再生することを世の中に広める」ことを目的とした一般社団法人を発足し、そこから独自開発の「再生可能タグ」も展開する予定だという。

荒川氏は、アップサイクルプロジェクトを推進する一般社団法人「RE WEAR」を2022年9月6日(黒の日)に設立。そのことを記念し、京都の二条城内の「香雲亭」において展示会を、京都ブライトンホテル1階の宴会場では関係者に向けたパーティーが開催された。招待制の展示会では、黒染め技術や再生ペットボトル繊維を活用したアップサイクル製品を披露。当日のイベントでは、参加者から事前に預かった衣類に黒染めを施し、その黒の衣裳を纏った多くの参加者らで会場が大いに賑わった。

「いずれは黒染め以外の染め直し屋さんに、このシステムをサブスクリプションなどで安価に使っていただけるような整備を整えたい。受発注のインフラを手軽にしなければ使ってもらえないですからね。競合他社とも協力し、染め替えの概念を広めることで染め替えの文化を世界に広められると考えています。じっとして考えていても仕方がないし、行動しなければ何も変えられない。動けば発見もあるし、技術や活動を知ってもらえるチャンスになるし、人と繋がることもできる。自分は天才でもなんでもないし動いてから結果を考えるタイプなので、僕の場合はその性格がいい方向に転んだだけ。人と出会い、人に助けてもらった。お陰さまなんですよ(笑)」

 

伝統産業は最先端だったが、その多くが止まってしまっている。それを最先端で居続けさせるために、チャンスや気づきを無駄にしないことはいわずもがな。「伝統的な技術や作品が素晴らしいことは当たり前。だから長い間続けてこられた訳ですから、次はその技術や作品の魅力をどのように転換するか。頑なに守ろうとばかりせず、“変わる”ことを恐れずに挑戦できるかが要です」そう話す荒川氏。

 

続けることは名誉であり、最も難しいこと。何ものにもとらわれず、ブレない姿勢で新たな挑戦を続ける京都紋付の姿勢は、伝統産業を再生・昇華させたビジネスの成功例として、他の伝統産業を未来へと導く儀形になるのではないだろうか。

株式会社京都紋付 代表取締役社長
荒川 徹(あらかわ とおる)
Toru Arakawa


1958年生まれ。大正四年より続く京黒紋付染専門の染物屋・株式会社京都紋付の四代目。1983年の入社後、黒一筋にこだわる同社の染め物の現場に携わる。1996年、代表取締役社長に就任。2001年、黒染め(洋装)の研究開発を開始し、洋装業界では他に例を見ない深い色合いの黒染め「深黒」を開発。同年に「平成21年度伝統的工芸品産業功労者経済産業省局長賞」を受賞。2022年9月MFUマイスター(技術遺産)に認証される。2003年、洋装事業部を設立。現在もファッションブランドや百貨店とのコラボレーション企画のほか、染め替えサービスの展開や新たなシステムの開発にも尽力している。

https://www.k-rewear.jp/

http://www.kmontsuki.co.jp/

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